2021年3月2日火曜日

[絵本] 「フレデリック」の「ことば」の謎


小さな魚たちが工夫をこらして生き残る「スイミー」で有名なレオ・レオニ。

「フレデリック」は個人的に一番好きなレオ・レオニの絵本だ。

あらすじはこうである:

牧場の片隅で楽しく暮らすネズミたちは、冬に向けて食料を溜め込むのに忙しい。でもネズミのフレデリックはろくに働かず、「太陽を集めている」「色を集めている」「ことばを集めている」などと言ってぼーっとしている。雪の季節がきて、冬ごもりがはじまり、やがて食料も底をついたとき、ネズミたちはふと思い出す。フレデリックが集めたという「太陽」や「色」や「ことば」はどうなったのか……?

本稿では「フレデリック」のお話にひそむ謎「『ふゆねずみ』は何のために存在するか?」について考察したい。

キリギリスとフレデリック

まず物語を少し読み解いてみよう。

冬ごもりを前に働かない怠け者、と聞くと「アリとキリギリス」を連想するが、フレデリックは見捨てられることもなければ、実は怠け者でもなかった。集めた「太陽」「色」「ことば」を彼が披露すると、仲間は拍手喝采!というのがこのお話の結末である。

このストーリーをどう受け取ればよいかを語るにあたり、アリとキリギリスとの対比は避けられないだろう。フレデリックが集めたものでは腹はふくれないが、ネズミたちはそこにはっきりと価値を認めるに至る。「人はパンのみに生きるにあらず」というと信仰が必要という意味になってしまうが、とくにロックダウンの2020年を経験した我々現代人は、まさにただお腹を満たすだけでは生きていけないことを強烈に思い知らされたばかりだ。

また、とにかく食料を溜め込むことに躍起になっている仲間たちに対し、違う視点を持って冬に備えられるフレデリックがいたことで彼らが救われる、という多様性の物語として読むことも可能だろう。

「ことば」と冬ネズミの謎

閑話休題。本稿は、フレデリックが最後に披露する詩、彼の集めたという「ことば」の謎について考えてみたく筆を執ったものである。

当該部分の詩を以下に引用する:

「三がつに,だれが こおりを とかすの?
六がつに,だれが 四つばの クローバーを そだてるの?
ゆうぐれに,だれが そらの あかりを けすの?
だれが つきの スイッチを いれるの?
それは,そらに すんでる 四ひきの ちいさな のねずみ。
ぼくと きみ そっくりの,
はるねずみ,ゆうだちを ふらせる かかり。
なつねずみ,はなに いろを ぬる かかり。
あきねずみ,くるみと こむぎの かかり。そして
さいごは ふゆねずみ,ちいさな つめたい あし してる。
きせつが 四つで よかったね。
一つ へったら,どう なる ことか。
一つ ふえたら,どう なる ことか!」
(1969年 好学社刊 「フレデリック」 作:レオ・レオニ 訳:谷川俊太郎)

時間と季節の移り変わりについて、4匹のネズミの精霊を登場させて語っている詩である。あけすけに言えば、一読して「ふゆねずみ不要説」が頭をよぎるところである。「ふゆねずみ」は何のために存在するのだろうか?

まず、4匹のネズミの精霊のうちふゆねずみにだけ「かかり」がない。それに、終りの部分の「もし季節が一つ減ったら?」という問いは、「もし冬という季節がなかったら、飢えて凍えることもないのに」という反実仮想を呼び起こす。もし冬がなければ、何の「かかり」もないふゆねずみがいなければ、みんながハッピーになるかもしれない……。そう思わせる仕掛けがこの詩にはある。

では「冬なんてなければいい」というのがこの詩の主題かというとそうではない。なにしろ「きせつが 四つで よかったね」が結論だ。冬という季節、ふゆねずみの存在をむしろ肯定するのが、この詩の主題であり、フレデリックのメッセージととるほかない。

ふゆねずみにはなぜ「かかり」がないのか。「雪だるまとスケートのかかり」「暖炉を見守るかかり」など、ふゆねずみにも「かかり」を与えれば、冬という季節を合理的に受け容れられるのではないか。

しかしここでフレデリックが説くのは合理性ではない。冷たく灰色で、何の喜びも役割もない、誰にも歓迎されない冬。その正体は、小さな肢を冷え切らせた、ぼくときみそっくりのネズミなのだという。

フレデリックのストーリーにはもうひとつ小さな謎がある。食料をろくに集めもしないフレデリックが、冬ごもりに参加できたのはなぜだろうか?自然に考えれば、腐ってもネズミ仲間だからまあしょうがない、ということなのだろう。そんな気のいいネズミたちであるから、「ふゆねずみ」が目の前に凍えて立っていたら、思わず隠れ家に招き入れてしまうかもしれない。そんな可能性を掘り起こしたのがフレデリックの「ふゆねずみ」像ではないか。

そのような想像をすると、もし季節が一つ減ったら?という問いも違った受け止め方ができる。もし季節が減って、冬がなくなってしまったら、ふゆねずみは行き場を失ってしまうだろう。そのような哀しさで「冬よなくなれ!」という気持ちを縛るのがこの問いの効果のように感じる。

では、もし季節が一つ増えたら?空に住むネズミの精霊たちは大慌てだろう。フレデリックは最後にこのユーモアを置くことによって、哀しさで縛った気持ちを解きほぐし、仲間たちの拍手喝采を呼んだのだ。彼は詩人であるだけでなく、なかなかのエンターテイナーではないか。

<了>



0 件のコメント:

コメントを投稿